小説 『旅の果てに』





第1話 出逢い 言い伝え 約束 先生 辻褄 縁結び
第2話 偶然 眠れぬ夜 手紙 記憶の片隅に 出発(たびだち)
第3話 さらなる偶然 いざない 奇祭 とまどい みなとや
第4話 烏城 たった一度の 思い出 もうひとつの 疑問
第5話 変貌 里子(さとご) たった一人の 愛染桂 あとがき





 出逢い

「あっ! あなたは?!」
「あの美食家の・・」
「いえ、人違いです。」
私は咄嗟に答えていた。そう。その人はあまりにも眩しくて、あの人にとても似ていたから・・・

私は、その界隈では有名な美食家である。今日も、ここ信州の温泉街へ旨いものを求めてぶらり出かけてきた。
長野県上田市塩田平の奥に位置する別所温泉は、ヤマトタケルが東征の際に発見したといわれる信州最古の温泉である。
奥まったその場所柄か、温泉街の歓楽的な雰囲気はまったくなく、街全体にのんびりした風情が漂い、私の好きな温泉街のひとつである。別所温泉は、別名信州の鎌倉ともいわれ、北向観音をはじめ、大きな瓦葺き屋根の常楽寺、国宝八角三重塔がある安楽寺など、見どころが歩いてすぐ行ける範囲に点在し、運動嫌いな私には好都合なのである。
そんな私だから、少し歩いただけで息切れしてしまい、常楽寺隣りの茶房でひと休みしていたところ、突然に見知らぬ、いや、知っているか・・女性に声をかけられたのである。
「あのぉ〜・・お一人ですか?」
その言葉は、ほとんど同時に重なり合って寺の境内へ消えていった。
「あはっ」
「うふっ」
恥ずかしいような嬉しいような、なんとも言えない雰囲気が一瞬その場に流れる。
「私は一人旅・・か・な。」
ちょっと口ごもった感じで、彼女は言葉をつなげながら、前髪を右手の中指と薬指で掬った。ふわっと甘い香りが私の鼻を擽る。この香りは、あの時の・・・

今からちょうど3年前、今日と同じ冬の季節に、ここ別所温泉へ私は来ていた。
もともと温泉好きな私は、温泉と美食は切っても切り離せない相愛する男女のようなものと言う、頑固なこだわりを常に持ちつづけている。そんな私のこだわりに、ぴったりの宿が、ここ別所温泉の老舗旅館「臨泉楼柏屋別荘」である。
「柏屋別荘」は、古くは上田藩の出屋敷として使用されていた木造4階建ての建物で、創業は明治43年というから、かなりの由緒正しき老舗旅館であるが、そんな堅苦しさは微塵もなく、親しみやすさが随所に感じられ、ゆっくりとくつろげる宿である。
宿についた私は、さっそく浴衣に着替え、木漏れ日の眩しい露天風呂へと足を運んだ。
別所温泉の湯は、昔から「美人の湯」として名高く、美肌効果にも優れている温泉である。
お風呂から出た私は、お待ちかねの夕食に食事処へと向かった。
この食事処は、「こもれび」という名のプライベートスペースとなっており、江戸時代の造り酒屋から改造された、ひと部屋ずつに仕切られた空間で構成され、すっきりとした清楚な室内は、掘りごたつ式で、この心尽くしがたまらないのである。
懐石風の料理は、季節の素材を生かしたもので、まずは前菜盛り合わせ、くるみダレでいただくそばサラダ、刺身盛り合わせ、鮎の塩焼き、季節の天ぷら、松茸の土瓶蒸し、そうそう。ここ別所温泉は、松茸の産地でも有名である。つづいて松茸ごはん。やはり地物は美味である。
「旨い!」
私は、思わず大声で叫んでいた。その時、ちょうど私の部屋の扉が開き、仲居さんがお酒を運んできた。その扉の隙間から、こちらを見てニコッとしている一人の女性客が私の目に・・あ〜なんと照れくさい。私は目の前の盃を手にすると、いっきに飲み干した。

知らず知らずのうちに、ずいぶんと酒が進んだものだ。ほろ酔い気分の私は、食事処を出ると、酔い覚ましにと夜の別所の街を散策することにした。
別所温泉には、4ヶ所の外湯があるが、そのうちのひとつ、宿のすぐ脇の「石湯」の前を通り、もうひとつの外湯「大師湯」の横を右へ折れ、しばらく歩くと北向観音である。北向観音は、古くから厄除け寺、縁結びの神様として参拝者も多く、境内には縁結びの霊木「愛染桂(あいぜんかつら)」と呼ばれる桂の巨木がある。
私は、その桂の巨木にうっかかりながら、冬の星空を眺めていた。
「あら!先ほどの方?!」
夜の闇の中、その澄んだ声はいちだんと響き渡った。
「えっ?!」
私が顔を戻すと、すぐ目の前にあの彼女の顔が。何という偶然。きっと「愛染桂」が・・・

 言い伝え

突然の出来事に面食らっている私の顔を、彼女は小首を傾げて悪戯っぽい仕草で覗きこむ。
「あ〜、お酒臭ぁ〜い。」「飲みすぎだぞっ!」
(なんなんだこの彼女(こ)は。)
私は心の中で呟いた。ずいぶんと馴れ馴れしい。私が喋る間もなくたてつづけに、
「私、知ってるも〜ん。」
と、彼女。
「な、なにを?!」
やっと私の声。それも喉に詰まっている。
「ひ・・み・・つ」「ねえねえ。この巨木、縁結びの霊木なんだって・・知ってた?」
「うん。知ってるよ。」
ようやく、普通の会話になってきた。
「それじゃぁねぇ〜。いいこと教えてあげる。」
「私も、友達から聞いた話なんだけどね。なんでも言い伝えでは、3年後の同じ日、同じ時間に、またこの木の下に来ると、大切な人と出会えるんだって。」
「えっ?!」
私は、今まで何度となくこの別所へ来ているが、そんな話は初めて聞いた。
「寒くなってきたよね。もう宿へ戻ろうか?」
そう言われてみれば、かなり寒い。だいぶ酔いも覚めてきた。私は、彼女の話をもう少し聞きたかったのだが、時間もかなり晩くなっている。
「そうだね。そろそろ戻ろう。」
私はそう言うと、月明かりの道を彼女と歩き始めた。ちょうど「石湯」の前、宿の灯かりが見え始めた時、彼女が突然つまづいた。
「あっ!危ない!」
私は、咄嗟に彼女の腕を掴み引き寄せた。何も疚しい気持ちではなく、彼女の転ぶのをただ・・そして、私の唇が柔らかな感触につつまれた。・・
「それじゃぁ。おやすみなさい。」
彼女はそう言い残すと、小走りで宿の玄関へと駈けていった。甘い残り香をそのままにして・・・

翌朝、食事の前に、この宿の三つある家族風呂の中でも、いちばん人気の高い「弐」の家族風呂へ入ることにした。
家族風呂は、他にも「壱」と「参」があり、いずれもそれほど広さはなく、こぢんまりとしているが、壁には明治期の貴重な舶来の手焼きのタイルが埋め込まれ、このタイルが風呂のレトロな雰囲気を、よりいっそう盛りあげている。
朝風呂のあと、まだ朝食までに時間があるため、宿内にある「柏屋別荘文庫」で本を眺めていると、
「おはようございます!」
私の肩越しから元気な声が聞こえてきた。後ろを振り返ると、朗らかな笑顔が魅力の宿のご主人であった。ほんとうに清々しい宿である。
この文庫には、斉藤茂吉や北原白秋、有島武郎などの文人から、大島渚に長島茂雄、はてはジャンヌ・モローまで、この宿ゆかりの著名人の色紙が飾られ、著作物も展示されたギャラリースペースとなっている。
「おっ、そろそろ朝食の時間だ。」
私は、一人喋りをしながら、いそいそと足早に食事処へと向かった。
さて、お楽しみの朝食であるが、手作りの刺身こんにゃくを始め、鮎の甘露煮、茶碗蒸し、湯豆腐などが豪華に並ぶ薬膳料理は、品数も豊富で、どれから箸をつけたらよいのか迷うほどである。これがまた楽しい。宿の女将さん、若女将さんともに元薬剤師さんという経歴から、それぞれの料理の美味しさはもちろん、栄養面にもこだわった一品である。
「さて、ご飯は麦めしと薯蕷、茶粥から選ぶんだったな。」
私は、また一人喋りをしながら、食膳についた。ちょうどその時、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。なにかあったのかな。それから私は、目の前のご馳走にゆっくりと舌鼓を打ち、食事をすませると、部屋へ戻り、何気なく窓際へ向かい、窓の外を見た。
「おや?あれは彼女では?」
誰だろう・・いっしょにいる人は。ここからではよく見えない。男性だろうか。女性だろうか。二人して「大師湯」のほうへ歩いていく。私は、すぐにでも追いかけたい衝動に駆られた。どうしよう・・・

 約束

いても立ってもいられないとは、こんな気持ちを言うのだろうか。
「何を迷っているんだ。早く行かなくちゃ。」
心の中で叫ぶ声がした。私は、その声にひきずられるように、浴衣をその場へ脱ぎ捨て、急いで身支度をして玄関ロビーへと向かった。玄関を出ると、先へ行った二人に気づかれないように、物陰に潜む。そんな自分の姿は、他人(ひと)が見れば滑稽だろう。どうもさまになっていない。これでは、私は絶対に刑事にはなれないな。物陰からは、二人の姿はまったく見えない。
「何してるの?!」
「わっ!」
びっくり、ドッキリ。彼女が後ろに。いつ来たんだ。私は思わず、
「えっ?!さっき二人で・・」
「ん?なに?」
「あっ、いや・・なんでもない・・・」
「もう食事はすんだの?」
「うん。」
彼女が聞き、私が答える。
「じゃぁ、ちょっと大湯まで歩こうか。」
彼女にそう言われるままに、私は歩く。なんだか自分が情けない。
「大湯」は、別所温泉外湯の4ヶ所の中で、唯一露天風呂がある外湯である。しかし、湯船のそばに、小さな石像があるのはなぜだろう。ここ別所へ来ると、いつも疑問に感じてしまう「大湯」である。大湯への道筋は、北向観音の前を南へ下り、愛宕池から北東方向へ進み、相染川を渡ってすぐの場所で、ちょうど「大湯」の隣りには、湯本屋という食堂がある。この湯本屋は、昭和2年創業の趣きある佇まいの手打ちそば屋さんで、右読みの看板が歴史を感じさせる。店内には、なぜか、プロレスラーのアントニオ猪木といっしょの若かりし頃の店主の写真が飾られている。手打ちそばは盛りもよく、コシがあり、食べごたえは満点である。
歩きながら彼女が、
「昨夜は・・私も酔っていたよね?」「ふふ・・ちょっと飲みすぎちゃった。」
「ぼ、僕も同感。」
(ぼ、僕?・・何を気取っているんだ。私は。)
でも、さっきの人は誰だったんだろう。聞いてみたいなぁ。・・よし。思い切って聞いて・・と、突然。彼女が、
「私、あなたに約束してほしいことがあるの。」
「えっ?!なに・・?!」
「私ね。一人旅で・・」
一人旅・・私は、その言葉に・・・

 先生

この季節でも、「常楽寺」にはチラホラ観光客の姿が目につく。そんな中、どこからか甘い香りが・・
「何を考えているの?」
「私が一人旅って言った途端、突然黙っちゃったから心配しちゃった。」
そう言うと彼女は、小首を傾げて悪戯っぽい仕草で私の顔を覗きこんだ。ぅん?このショット・・3年前のあの晩(とき)と同じ・・・そう思っていた時、
「すみませ〜ん。シャッター、お願いできますぅ〜?!」
女子学生のグループだろうか。
「あっ?!あなたは美食家の先生?!」
「ほんとだぁ!」
賑やかな女子学生グループの声と重なるように、
「やっぱり!」
彼女が叫んだ。
「バレちゃったか・・」
私が照れくさそうに笑って応えると、彼女は、
「初めからバレバレ」
と、ちょっとむくれた感じで微笑みを返した。女子学生グループはと言うと、こちらを見て何か相談している。そして、意を決したかのように、緊張した面持ちで一人の学生が私に、
「いっしょに写真を・・」
彼女は黙って頷いている。
「先生!こっち、こっち!」
私は、女子学生グループに促されるように常楽寺へ。
(先生か・・)
なんだかモテモテ。悪くない気分だ。写真を撮り終え、サインをねだられ、美食処を聞かれてと・・さぞかし鼻の下が伸びていただろう。だいぶ時間がかかってしまった。そろそろ茶房へ戻ろうとした時、一人の女子学生が、怪訝そうな顔をして私に話しかけてきた。
「そうそう。私、さっきから気になっていたんだけれどぉ〜。先生、誰と話しをしていたんですぅ〜?」
「えっ?それは・・」
私は、そのまま言葉を濁すと、急いで茶房へと向かった。茶房へ戻ると、テーブルの上にメモがある。私は、すぐにそのメモを手に取り読み始めた。読み終えた瞬間、突然メモが風に飛ばされ宙へと舞った。その時、一瞬メモが木の葉に変わったかのように見えた。そのメモには、{あの場所で待っています}と言う走り書き・・あの場所と言えば、あそこしか・・・

 辻褄

「約束っていったい?」
私は、歩きながら彼女に問いかける。
「昨夜、私が話したこと覚えているよね・・「愛染桂」の話。」「ロマンチックだよね。」
「でね・・私、3年後にその場所へ行ったんだぁ〜・・3年後の約束どおりに。」
「えっ?!それって、なにか変だよ・・3年後の約束?!辻褄が合わない・・3年前じゃないの?」
「ぅんん。3年後の約束だよ。」
「だから、あなたにも約束してほしいんだぁ〜3年後のことを。」
「なにを?」
「必ず昨夜と同じ日、同じ時間にあの場所へ来てほしいんだぁ〜。」
「そうすれば、きっと私に会えると思う・・ねっ!約束だよ!!」
「ちょっと待って!」
私が呼び止める暇(いとま)もなく、彼女はそう言い残すと、一目散に宿のほうへと取って返して走り去って行ってしまった。いったい、どういうことなんだ。まだ聞きたいこともたくさん・・そう。今朝、彼女といっしょにいた人のことも・・・私は、悶々としながら、理由(わけ)のわからぬまま、その場から宿への帰路についた。

宿へ戻ると、
「お帰りなさい・・」
いつも明るい宿のご主人なのに、声のトーンも低く俯いたままである。顔つきもなぜか悲しそうだ。
「どうしたんですか?」
私の問いかけに、
「あっ、先生。悲しいですよね。あの娘さんが突然、お亡くなりになられたんですよ。救急車が来た時には、もうすでに・・」
「えっ?どなたがですか?」
「先生、ご存じなかったんですか?・・ほら、あの目元が可愛らしい感じの・・先生のこと、憧れてますって話していらっしゃったことも・・」
私は息つく間もなくたてつづけに、
「亡くなったのは?いつ頃?私のお知り合い?」
「今朝がた早くだったんでしょうか・・ちょうどご朝食の頃、気づいたんです・・確か、お食事処の部屋が先生とお向かいの・・」
「そうそう。うちの仲居が話していましたが、昨日の夕食の時に、ちょうど先生のお部屋の扉を開けたら大きな声で・・」
それで分かった。彼女だ。
「えっ?でも・・先ほどまで私は彼女と・・」
「なにか?」
ご主人が聞き返す。
「あっ、いえ。」
そう言ったあと、私は少し寒気がした。まさか・・そんな・・・

 縁結び

帳の下りた闇の中・・そう。私は、急ぎ足で「愛染桂」のそびえ立つ北向観音へと向かい歩いている。彼女の残したメモと、3年前のあの時の彼女の言葉を信じて・・

私は、とり憑かれてしまったんだろうか?でも、そう考えたくない・・考えちゃいけないと心が叫んでいる。途中行き交う男女の姿が、なぜか3年前の彼女と私に重なって見える。今何時だろう。私は、携帯電話を持つようになってから腕時計というものは持たなくなった。
「♪〜♪〜♪」
わっ!驚いた。時間を見ようと携帯を手にした瞬間であった。突然、着信メロディーが流れた。
(非通知?!)
「誰からだろう?・・もしもし・・」
「わ・た・し・・」
夜の闇の中に響きわたる澄んだ声・・言葉少なであったが、それは紛れもなく、あの彼女の声であった。
「ツーー」
すでに電話は切れている。とにかく急ごう。歩いてすぐ行けるはずの北向観音までが、なぜかすごく遠く感じる。途中、行き交う人影も疎らとなり、冬の闇の静けさが私の体によりいっそう迫ってくる。と、その闇の先に大きな木立が見えてきた。
「愛染桂だ!」
私は思わず叫んでいた。今まで以上に足早になる。そして、携帯を握り締め、時間を見た。11時48分。あと5分で「愛染桂」の下へ行けば・・ちょうどあの夜と同じ時間だ・・着いた。ちょうど11時53分。私は、闇の中に目を凝らそうと・・でも、怖い。目を瞑ろう。いや、それでは何も見えない。そうだ!星を眺めよう。私は、満天の冬の星座を眺めた。
「綺麗だなぁ〜!」
私がそう叫ぶと同時に、
「せ・ん・せ・い・・!」
夜の闇の中、澄んだ声がいちだんと響きわたった。私が顔を戻すと、すぐ目の前にあの彼女の顔が。来たんだ彼女が・・でも、彼女の顔がぼやけている。私の口の中は、塩辛い味。
「ありがとう。約束守ってくれたんだぁ。」
「ねぇ、私が見える?」
「見えるよ。とても綺麗だ。」
「よかったぁ。・・きっと「愛染桂」が・・・」

〜『第1話』..おわり



 偶然

「せ・ん・せ・い・・!」
突然、私の肩越しから声がした。
「えっ?!」
思わず振り返ると、昼間の女子学生の一人がそこに・・
「一人でなにを?・・」
ほとんど同時に、お互いの声が闇の中にこだました。
「あ、あの・・その・・・」
私が口ごもっていると、彼女も口ごもっている。
「ふふっ。おっかしい〜。」
彼女が呟いた。
(あっ、いけない!)
私は、急いでまた振り返った・・が、もうすでに“彼女”の姿はそこにはなかった。
「どうして?こんな時間に?こんなところに?」
私はたてつづけに質問する。
「私も柏屋別荘に泊まっているんだけどぉ〜・・偶然にね。先生が血相を変えて旅館を飛び出して行くのを、私見たんだぁ。」
「それで、あとをつけて・・ごめんなさ〜い。」
悪びれた様子もなく、明るい笑顔(暗くてよく見えないが・・)でそう答えると、その彼女(こ)は、舌を出しながらペコッと会釈をした。その仕草が憎めない。私は女性に・・そう。特に若い女性に弱いのかも・・・その時、ざざーっと「愛染桂」の枝が大きく揺れた。私はなんだか、“彼女”がすぐそこにいるような気がした。

茫然としている私に、
「先生、もう旅館へ戻らない?」
彼女のその声で我に帰る。
「そ、そうだね。」
私はぶっきらぼうに応えると、すぐさま歩きだした。
(“彼女”は・・)
「待って!待ってぇ〜先生!」
私の背中から彼女の声が追いかけてくる。その声は、冬の寒空にいや増して・・・

 眠れぬ夜

「先生、寒くない〜?」
「私、寒ぅ〜い。」
そう言うと、私の気持ちもお構いなしに彼女は腕を絡めてきた。
(今どきの若い子は、積極的だなぁ。)
なんだかあの時の・・そう。まるで3年前のあの“彼女(こ)”のようだ。あの「石湯」の前での突然の出来事・・ん?なぜあそこで、“彼女”は転びそうになったんだろう。何もつまずくようなものがないところで・・その翌朝の突然の“彼女”の死と謎の“人影”・・どうして?・・・私は、無性に“彼女”の亡くなった理由(わけ)を知りたい気持ちになった。
「先生、何考えているの?」「あ〜。当ってようかぁ〜。」
「私とどこかへ飲みに行こうかなって・・」
こんな私の気持ちを知らない彼女は、いたって明るい。その雰囲気が、またどことなくあの“彼女(こ)”に似ている。そうこうしているうちに、宿の灯かりが見えてきた。
「早く帰らないとぉ〜。みんなに怪しまれちゃうぞぉ〜。」
私がそう言うと、
「大丈夫だも〜ん。」
彼女はそう言って私にウインクした。宿へ入り、彼女を部屋の前まで見送ったあと、私も部屋へ戻り、布団の上に大の字になった。しかし、いっこうに眠れない。もう夜も更けているというのに、眠くならないのはなぜだろう。気になるなぁ。やっぱり“彼女”のことが・・そして、あの彼女(こ)のことも・・・

 手紙

もう何時だろう・・どうしても眠れない。夜明けならず夜更けのコーヒーでもと思い、きっと閉まっているだろうなと思いつつも、変な期待をしながら玄関正面にあるラウンジの「やまつつじ」へと向かう。
「やまつつじ」は、フロント横の一服茶席で畳敷きとなっており、それぞれの席にはどこか懐かしい感じの円卓(卓袱台)が置かれている。ここで、宿へ訪れたゲストが、まず最初に女将さんの明るい声と優しい笑顔とともに迎えられ、お茶をもてなされる。この温かな出迎えが、長旅で疲れた心と体に安堵感を与え、宿への期待感をよりいっそう高めてくれるのである。そして、「やまつつじ」は昼はコーヒー、山ぶどうのジュースなどが味わえ、夜になると全国13銘柄が味わえる日本酒バーに様変わりをする。

ラウンジへ来ると、やっぱり閉まっている・・と思ったら・・・薄暗い灯かりの中、誰かいる。
「あっ?!ご主人?」
「先生?こんな夜更けにどうしました・・どこかお具合でも?」
「いえ。そうじゃなくて・・」
私が照れくさそうに、
「どうも眠れなくて」
と言いかけた時、
「あっ、そうだ。ちょうどよかった。」「先生にお渡しするものが・・以前からお預かりしていたんです。」
「明日の朝、お渡しの約束だったんですが・・もう日付も変わったことですし」
そう言うと、ご主人はフロントのほうへと歩いていった。しばらくすると、ご主人が手に何か持ってやってきた。
「お約束のものはこちらになります。」
(手紙?)
私は心の中で呟いた。それは、花柄のついた薄ピンク色の小さな封筒..そして、あの甘いほのかな香り...
「あの方・・ほら、ちょうど3年前にこちらでお亡くなりになられた・・そのお亡くなりになる前日に・・・」
そうご主人が言う前に、私にはすでに・・“彼女”・か・ら・だ・・・

 記憶の片隅に

「先生、ごめんなさい。」
そう言うと、ご主人は深く頭をさげた。
「あの時、突然お亡くなりになった時に、よっぽどこのお手紙をお渡ししようと思ったんですが・・きつくあの“彼女(こ)”に約束されまして・・・」
「3年後の今日に必ず渡してね・・と」
「でも・・まさかあんなことになるとは・・・」「ほんとうに申しわけありません。」
あまりの丁重なご主人の姿に私は、
「とんでもないです。こちらこそありがとうございます。長い間ご心労だったでしょう。」
と、まるで、あの“彼女(こ)”の身内のような口調で応えていた。
私は部屋へ戻ると、震える手でその封筒を開いた。いきなり目に飛び込んだ最初の文字..
(きれいな字だなぁ)
あらためて私はそう思う。
{先生・・きっとこの手紙を読んでいらっしゃる頃は・・私は。憶えている?せ・ん・せ・い?あの時のこと。ずぅ〜っと昔のこと。私、先生のことほんとに・・・あの「愛染桂」の話・・その時に大切なあの・・に逢えたのかな・・・もし、だめだったら、この・・行って・・・}..大切なあの・・何だろう?ところどころ、字がかすれていてよく見えない。
(おゃ?)
手紙の片隅に小さな字で何か書いてある。「諏・・訪・・・」

「諏訪」・・人の名前だろうか?それとも地名?地名ならば、私の記憶にあるのは「温泉」と「湖」と「花火」、そして、「御柱」が有名な長野県の「諏訪」・・そうだ。明日にでも宿のご主人に・・でも・・・

 出発(たびだち)

あれから一睡もできなかった私は、ズキンズキンした頭を抱え・・もし外せるものなら、ほんとうに外して抱えたいほどであるが・・・ご主人のところへと。フロントへ着くと、
「おはようございます!」
いつもの明るい声と笑顔でご主人が挨拶してきた。
「おはようございます!」
私も負けじと、頭の痛いのを抑えて元気に応対する。
「あのぉ・・ちょっと教えていただけませんか?」
「なんでしょう?」
「あの“彼女”のことなんですが・・お名前とかお住まいは聞かせて・・・」
私がすべてを言い終える前に、
「いくら先生でも、それはちょっと・・すみません。」
とご主人。
「そうですよね・・」
私の予期していたとおりである。
「それじゃぁ、『諏訪』という名前にお心あたりは?」
「『諏訪』ですか?・・あの湖のある?」
「は・・いやもういいです。こちらこそ、朝から変なことをお伺いして申しわけありませんでした。」
「それでは失礼します。」
そう言って、私がその場から離れようとした時、
「待ってください。他ならぬ先生ですから・・これだけは。」
「あの“彼女”は、『諏訪』では・・ないですよ。」
と小声でご主人が・・
「ありがとうございます。」
私は深々と頭をさげた。
「あっ、そうそう。あの賑やかな女子学生のグループは?」
「今朝早くに、もうお発ちになられましたが・・なにか?」
「いえいえ。特には・・」
(そうか。もう発ったのか。やっぱりおじさんには興味が・・私も齢30半ばだからなぁ・・・)
私は思わず苦笑した。
(おや?聞こえたのかな?)
ご主人が微笑んでいる。
「そうだ。ご主人。」
「私、まだこちらに滞在の予定だったんですが、私もこれからチェックアウトをしたいんですが・・よろしいですか?」
「はい。かしこまりました。すぐにそのご準備をさせていただきます。」
まだご主人が微笑んでいる。やっぱり聞こえたのか・・・

〜『第2話』..おわり



 さらなる偶然

「下諏訪〜下諏訪〜」
構内アナウンスが流れる。月も変わり、休みに入った学校もあるのか・・そのアナウンスの声に混じって、学生たちの賑やかな話し声があちらこちらから聞こえてくる。その声の中、私は改札口へと向かって歩いている。

別所温泉駅の女性駅長さんに見送られ、8時25分発の「上田交通別所線」の電車に乗り、上田駅まで出たあと、上田駅から「しなの鉄道・信越本線」の快速下り線にて長野へ向かい、長野からは、9時54分発の「篠ノ井線・中央東線」の「特急(ワイドビュー)しなの8号」上り線で塩尻へ。そこで高尾行きへ乗り換え、ちょうど今、11時21分に下諏訪駅へ着いたところである。
(お腹が空いたなぁ)
私は、下諏訪へ来たのはおよそ7年ぶりである。その時は、まだ美食家としてはあまり名も売れていなかった頃で、ちょっとした雑誌の取材で訪れたのである。今日の宿は、下諏訪温泉の「みなとや旅館」。この旅館は、「柏屋別荘」ご主人のお奨めの旅館で、満室であったところ、偶然にもキャンセルが入り予約をお願いできたのだが、美食家の私としては、ほんとうに楽しみである。
宿のチェックインまでには、まだだいぶ時間がある。まずはお腹を・・さて、何を食べようか。諏訪といえば「諏訪湖」・・確か、この下諏訪駅からすぐ近くに美味しいうなぎの有名店があったはずだ・・・え〜っと、名前は「こ・も・・小森」いや違うなぁ。「こ・ば・・小・・林・・・」
(そう。小林・・)
私は駅から南、湖畔近くの「うなぎの小林」へと・・お腹の虫を鳴らせながらいそいそと・・・

(ぅ〜ん・・)
小林のうなぎはやはり美味だ。私は思わず、唸りながら首を縦に振った。
店でも一番人気のうな重は、丹念に焼き上げられた蒲焼が実に香ばしく、一重目にはその蒲焼が惜しげもなく盛られ、二重目にはご飯に隠れてこれまた蒲焼が・・そして、他にも肝吸い、お口直しのお漬物などの3品が付き、これで1300円・・・この「うなぎの小林」は、遠く県外からのリピーターも多く、行列のできる店のひとつである。
私は、ゆっくりとうなぎを堪能し、店を後(あと)にした。
(美味かった・・)
気がつくと、もう午後2時を回っている。
(宿のチェックインは午後4時だったなぁ。少し諏訪湖でも散策するか・・)
お腹も膨れた私は、腹ごなしにと、小林から歩いてすぐの湖畔通りから湖畔沿いに出た。
湖からの爽やかな風が心地よい。
少し湖畔沿いを歩き始めた時、前方からこちらへ走ってくる女性(ひと)の姿が・・近づくにつれ大きくなって・・・
(あれっ?彼女?!)
「あらっ?先生?!」
その声は息も荒く・・・

 いざない

「驚っいたぁ〜。よけいに息が切れちゃったぁ〜。」
「はっ、はっ、はぁ〜・・」
彼女は深呼吸をしてから・・
「どうして先生、諏訪(ここ)にいるのぉ〜?」
「ぅん?ちょっと野暮用・・それより、君こそどうしてここに?」
「だって〜、私ここに住んでいるんだもん。」
「そ・・そうなんだ。」「で、そんなに走ってどこへ行くの?」
「え〜?先生、この支度見て分からないの?・・ジョギングだよっ。」「最近太りすぎだしぃ〜。健康のためにも・・ね。」
(太りすぎ?ぜんぜんそんなことないのに・・)
「でも、私ってスタイルいいよね?!どう思う先生?」
この切り返しが彼女らしい。
「そうだね。確かに・・」
そう答えると、私は思わず顔をほころばせた。

「今朝は、ずいぶんと早くに「別所(あちら)」を発ったんだね?」
私がそう尋ねると、
「そうなのぉ〜。私のせいでみんなに迷惑かけちゃったぁ〜。せっかく、春休みを利用しての仲のいい友達同士の旅行だったのに・・」
「何か緊急の?」
「それが、突然にね。家から連絡がきて・・」
「なんでも、昔のお知り合いの人が亡くなってから3年目だそうで・・誰も身寄りのない人なので、私の母さんが3回忌をしてあげるんだって・・・」
「今朝早くに「松本」へ出かけたんです。」
(ま・つ・も・と・・「松本」って、あの城下町の・・国宝松本城とほろ苦い私の思い出・・・)
「でもね。私も一緒に行くように言われたんだけれども、間に合わなかったの。」
「そう。だけどお母さん、3回忌なら、もっと早くに君に伝えればよかったのにね。」
「だよねぇ〜。でも母さん、出かける間際まで、私を一緒に連れて行くか迷っていたみたい。」
「でも、そのおかげで今、君に逢えてる。」
(こんな時に、何と言うキザなセリフを・・私は・・・)
「そっかぁ〜。そうだよね。ラッキ〜!」
彼女は明るく目じりの横で、私にVサインをしてみせる。その仕草が、たとえようのないほど可愛らしい。

「先生、今日はどこへお泊まり?」
「もしよかったら、私の家へ泊まるぅ〜?母さんも松本へお泊まりだしぃ〜・・父さんは・・い・な・い・・か・ら・・私・・ひ・と・り・・・」
そう言った時、あの明るい彼女の顔が一瞬曇り、どことなく寂しげな表情に変わった。
そうか・・彼女は・・一人・・・

 奇祭

「諏訪の街は、いつにも況して今年は賑やかだね。」
「うん。今年は御柱祭があるから・・7年に1度のね。」
(そうだった・・もうあれから7年、ちょうどそんな時期だ。確か、来月4月が山出しで、再来月の5月が里曳きだ。)
「こんなこと言ったら地元の人に怒られそうだけど・・天下の奇祭って言われていて、けが人や亡くなる人もいるんだよねぇ?」
「ぅん・・特に4月の山出しの時の木落としは・・だ・か・ら・・わ・た・し・・あ・ま・り・・好きじゃない・・・」
そう言うと、彼女の顔がまた暗く・・
(どうしたんだろう?)
私は、彼女のその表情に何か深い意味がありそうな気がして、それ以上は何も言えなくなってしまった。

「これから家へ行こっ。ねっ!先生。」
(困ったなぁ・・)
「ここから家は近いの?」
「うん。すぐそこ。」
そう言うが早いか、彼女は先に歩き始めている。
「先生、早く、早く〜」
私が急ぎ足で彼女に並ぶと、腕が・・また、あの夜(とき)と同じだ・・・

 とまどい

「そんなにくっついたら・・まだ明るいから・・誰かに・・・」
(嬉しい反面、内心ドキドキ)
「いいんだぁ〜見られてもぉ〜私。」
(何を言っているんだ・・彼女は)
「やっぱり、今日は宿へ泊まるよ。」
私はそう言うと、彼女の手をやさしくほどいた。
「それじゃ・・ここで。」
「・・・・・」
彼女は黙ったままである。私は、後ろ髪を惹かれる思いで彼女を見つめた。俯いたままの彼女・・小さな肩が小刻みに震えている。
「ごめんね。」「まだ諏訪(ここ)にしばらく滞在しているから・・また逢えるよ。」
「そうだ。明日・・明日また逢おう。」
「ねっ。いいだろう。
」私は懸命に彼女を宥めようと・・すると、
「じゃぁ、チューして!」
「えっ?!い・ま・・こ・こ・・で?」
「そうだよ。」
そう言って彼女は、目をこすりながら顔をあげた。その顔は、意地悪そうに微笑み、ちょっぴり目のまわりが赤く充血している。
(ますます困った・・)
彼女と私は、ひと回り以上も年齢(とし)が、きっと・・・

私は辺りを見回す。大丈夫。誰も見ていない。よもや見ていたとしても、若いカップルが湖畔でいちゃついているとしか見えないだろう。私は見かけよりもずっと若いし・・
(勝手な解釈をしている自分がなんだか後ろめたい)
そして、すばやく彼女に近づき、ニキビ痕がまだ残る小さめなおでこにキスをした。
(汗に混じって甘いほのかな香り・・どこか懐かしい・・・)
「あっ、先生・・ずるぅ〜い。」
「ほんとにごめん。今日はこれで勘弁して・・これから宿へ向かうね。」
そう言い残し、私は踵(きびす)を返そうと・・
「待って!先生・・携帯、携帯!」
そこで互いの番号を確認しあう彼女と私。そして、今晩の宿泊先「みなとや旅館」へと一人向かう・・
「ほんとに明日逢おうねぇ〜!」
と叫ぶ彼女の声を、私の背中に残したまま・・・

 みなとや

お楽しみの宿「みなとや旅館」に着いた頃は、チェックインの時間も過ぎ、すでに午後4時を回っていた。

中山道で唯一の温泉宿場町として栄えた下諏訪宿は、甲州街道との分岐点であり、また、諏訪大社の門前町としても大変な賑わいをみせた宿場町である。「みなとや旅館」は、その下諏訪宿の旧街道沿いにあり、多くの文化人にも愛されたこの宿は、木造2階建ての小さな宿で、江戸時代中期から200年以上もつづく老舗旅館である。資料が火災で焼失したため、いつ頃から始めたのか定かではないというが、小林秀雄や岡本太郎、里見ク、永六輔、田辺聖子といった文化人を始め、多くの人々を惹きつけ魅了してきた宿として有名だそうで、ご主人と女将さんのその人柄からも、それをうかがい知ることができる。

私が旅館の玄関の格子戸を開けるやいなや、
「こんにちは〜!いらっしゃ〜い!」
と、飾り気がない挨拶が聞こえてきた。
(心地よい・・)
さすが、「柏屋別荘」ご主人のお奨めの宿である。
私は部屋へ通されると、さっそく浴衣に着替えた。この浴衣が実にまたいい。よい意味でスタンダード、浴衣でさえ飾り気がないのである。
(さぁ。お風呂、お風呂)
私は上機嫌で露天風呂へ・・・

この「みなとや」の露天風呂は、岡本太郎が一番風呂へ入り、小林秀雄が「錦の湯」と名づけたそうで、なまこ壁や庭を望むお風呂は風情いっぱいで、湯船は畳1枚分よりも少し大きいくらいだが、浴槽からの眺めがなんとも贅沢で、気分爽快である。このお風呂の底には、白砂利が敷き詰められているが、始めは木の板を敷いていたそうで、どうしても浮いてきてしまうため、岡本太郎の提案により、今の白砂利を敷くようになったという。
露天風呂は到着順で貸切、これがまた嬉しい。

私は、のんびりとお風呂につかったまま、夕食の品々を思い巡らした。
(ふぅ〜・・気持ちいい〜)
何が出てくるんだろう?きっと、「馬刺」かな・・ほんとうに楽しみだ・・・

お風呂からあがると、ちょうど夕食の時間に。
夕食は、丸い印の大きな暖簾が印象的なお食事処の茶の間でいただく。料理はキノコや諏訪湖のワカサギといった、地元の食材を用いた素朴な郷土料理である。そして、大きなお皿にどーんと出されてきたのが馬刺。
(やっぱり・・名物だからな)
この口の中でとろけるような食感。くせがなくすっきりとした味わいで、何枚でも続けて食べられるのが、これまた・・・
「う〜。いい〜!」
あまりの美味しさに私は、自分のおでこを手のひらで弾いた。これなら、馬刺はちょっと・・というお手前にも、きっと大丈夫だろう。

馬刺を思う存分に味わった私は、食後の散歩もかねて、宿内にある資料館「風雅舎」へと向かった。この資料館には、多くの文化人が愛した宿にふさわしく、岡本太郎の貴重な遺品や永六輔の詩集などが展示され、「えっ、こんなものまでが・・」と、驚かされてしまうものばかりである。
(このまま少し外へ出るか・・)
私は、「左甲州街道、右中山道」と烙印された里見クの文字が入った下駄履きで外へ出た。

「カラン・・コロン・・」
心地よい下駄の音(ね)が辺りに響きわたる。私は、その心地よさに鼻歌交じりで、「みなとや」の斜め前にある「諏訪湖時の科学館儀象堂」前をとおり、西へ向かう。このまま歩けば大社通りへとつきあたる。
突然、
「♪〜♪〜♪」
その下駄の音(ね)を遮るように・・今流行の曲が・・・私の携帯だ。
「もしもし・・」
「ぇへっ・・電話しちゃったぁ〜」
彼女からだ。
「今、どこ?」
「もうすぐ大社通り沿いのおんばしらグランドパークだけど・・」
「私・・そっちへ向かっているんだけれどぉ〜・・逢えますかぁ〜?」
(えっ?逢うのは明日だったんじゃぁ?)
私が返答に困っていると、
「それじゃぁ、そこで待ってて。どっかへ行っちゃダメだよぉ〜」
と、彼女は勝手に決めてしまっている。弱ったなぁ・・今度は、彼女の“先制パンチ”がかわせるかどうか・・・

〜『第3話』..おわり



 烏城

そうこうしているうちに、目の前におんばしらグランドパークが見えてきた。天下の大祭として知られる、御柱祭をイメージして造られたというこのパークは、湯の街諏訪らしく、パークの中央からは温泉が流れ出ている。
彼女の姿は・・まだ見えない。このまま来なければ・・・
彼女は大学1年生かなぁ。もし、そうならば・・じゅう・は・ち・・ちょうど、あの時の私とあの彼女(こ)・・そう。ほろ苦い・・・

「素敵ね!烏城って!」
「そう。この松本城は、別名烏城とも言われているんだ。よく知ってるじゃん。」
「あったりまえじゃ〜ん。あなたと違って、私は松本(ここ)の生まれなんだからぁ〜」
「そうでした。そうでしたぁ。」
僕は、東京生まれの松本育ち、僕がまだ幼い頃、父親の転勤で、東京から松本へと家族で引っ越して来たのであるが、今年、僕が高校卒業を機に、今度は松本から東京へと引越しをすることになり、今日はちょうど春休みということで、彼女(隣のクラスの女の子であるが・・)とデイト中である。

彼女と僕は、同じ部活・・これがなんと料理研究部、そして彼女は部長、僕は副部長の仲・・そんな二人はいつしかお互いに・・まぁ、そう・・ごく自然にという感じで・・・

公園からお堀に架かる太鼓橋を渡り、黒門をくぐる。遊歩道の向こうに、烏城の名のとおり黒と白のコントラストが見事なお城がそびえ、平城であるため、そのまま遊歩道を歩けばお城の入り口へと到着する。
「中へ入ろうか。」
僕がそう言うと、彼女はもじもじしながら、
「ここのお城・・階段が・・すごぉ〜く・・・」「私〜・・今日ミニだからぁ〜・・下から誰かに・・どうしよう・・・」
「大丈夫。僕が後ろからガードしていくから。」
「ほんとに〜」
「うん。」
(やったぁ〜彼女のスカートの中が・・)
「どうしたのぉ?赤い顔して・・」
「あっ、い・・さ・さぁ・・入ろう・・・」

 たった一度の

松本城は、古くは奈良朝の中頃から深志城と呼ばれていたが、天正10年、この城へ入城した小笠原貞慶が松本城と改名したと伝えられている。天守閣は、約400年前に石川数正・康長父子により築城され、以来、小笠原、戸田、松平、堀田、水野及び戸田の城主を経て現在に至っている。その天守は、5重6階の大天守を中心に乾小天守を渡櫓で連結し、辰巳附櫓と月見櫓を複合した連結複合式と呼ばれる構成である。また、窓が極端に少ないことから、天守の居住性を廃し、武備を強化した当時の趨勢を示した構造となっているのが特徴である。

「すごいよぉ〜!ここ、ここ!鉄砲の打つところだよね。」
「見て見て!あそこに見えるのが重要文化財の開智記念館でしょう〜!その手前が小学校・・あれ?あんなところに神社・・・あとで行ってみよっ。」
彼女は大はしゃぎ。私は、別の意味で満足・・時の経つのも忘れるほどに・・・
そんな中での午後からのデート。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
「ねぇ、ここのお店の香〜水〜すごぉ〜くいい香り・・ちょっと高いけど、買っちゃおうかな」
「ちょっと待っててね。」
そう言うと彼女は、レジへとまっしぐら。
「ほら、どう?さっそくつけちゃったぁ〜」
前髪を右手の中指と薬指で掬いながらポーズをとる彼女からは、鼻を擽る甘い香りがふわっと・・・

市内でのウィンドーショッピングそして、意味のない会話・・それが楽しい。もう辺りも暗くなりかけてきた。
彼女と僕は、さっき天守から見えたお城の北にある神社へと・・興味本位で来てはみたが、薄暗い中、人気もなくひっそりとした境内。ちょっと不気味・・・
いっしょに鳥居の上に目をやる彼女と僕。そこには擦れた文字で、「松本神社」・・と・・・
「なんだか、願いが叶いそう。」
彼女はそう言うと、
「チャリ〜ン、チャリ〜ン」
「ちょっ、ちょっと・ま・・」
僕の止める間もなく、彼女はお賽銭を投げ入れた。
(まずいよ・・それ・・・)
僕は心の中で呟いた。彼女は知らないのかなぁ・・松本生まれなのに・・・この神社は、確か・・「縁切り」の・・・

お参りが終わると、振り向きざまに彼女が、
「今日は私〜。お友達のところに泊まるって言ってあるから・・あなたもそうだよねぇ。」
「・・ぅ・ん・・そ・う・・・」
僕は、ちょっとどぎまぎしながら答えた。
超ヤバァ〜ィ。彼女は・・マジだ・・・

 思い出

そう言えば、あの“彼女(こ)”とは、それ以来逢って・・ぅん?待てよ・・・

「ごめ〜ん。待ったぁ〜。」
彼女のその声で、おんばしらグランドパークの前で俯きかげんに思い出に慕っていた私は、思わず顔をあげた。
「どうしても明日まで待てなくて・・来ちゃったぁ〜」「ごめんなさ〜い。」
相変わらず、あの夜(とき)と同じに、悪びれた様子もなく明るい笑顔。
(今日は暗くても、街灯のほのかな灯かりで、ボンヤリとだが・・)
やっぱり彼女は、舌を出しながらペコッと会釈。ぅ〜。弱いなぁ・・その仕草に・・・

「あのね、あのあと母さんから電話が入ってね。明日も帰れないんだって〜」
「私〜。今日はこのまま、先生の旅館に〜・・いっしょに泊まろっかな〜」
「あっ!先生、困った顔してるぅ〜」
「私みたいな若い女性(こ)・・イヤかな?」
ほんとうに困った。私の本心は、泊まらせて泊まらせてと・・でも、なぜかあの時の・・ダブってしまう。あの松本での出来事と・・・

彼女と僕は、空いている宿を探す。ちょうど松本城近くに小さな宿を見つけ、そこへ泊まることに。どちらも18歳・・宿へ入ると、女将さんだろうか・・
「あなたたち?・・」
「はい!大学生です!」
彼女と僕は大きな声で答えた。
「そう・・」
それ以上は、女将さんらしき人はなにも言わない。チェックインをすませ、足早にそのまま外へ。
「ラーメンでも食べようか?」
と僕。
「うん。」
ラーメン店に入ると、結構な賑わいだ。運ばれてきたラーメンをすする彼女の顔・・湯気で曇っている。そのせいではないだろうが・・彼女、どちらかというと美人系ではない。目元がもっと可愛かったらな・・でも、まだ18・・・無理もないかぁ。そういう僕も・・そう。ジャニーズ系ではない。
「どうしたのぉ〜?なに見てるのぉ〜?」
「ぅん?今度いつ逢えるかなって・・」
「決まってるじゃ〜ん。今日でお別れ・・なんちゃってね。」
屈託のない笑顔で微笑む彼女。でも、この時、僕はもうこの“彼女(こ)”とは逢えないのかも・・って・・・妙な胸騒ぎを感じた。
ここまでは・・甘酸っぱく、とってもほろ苦い思い出。でも、それから数日後・・とっても悲しいことが。嫌な思い出・・・

春休みで、ボケーっとテレビをつけていた僕は、突然のニュースにテレビの前で釘づけになった。そのニュースは、松本から上田へと向かう、国道254号線三才山トンネル付近でのトラックと乗用車数台の衝突事故。自分の目を疑った。信じられなかった。事故に巻き込まれた数台の乗用車・・その中に、彼女と彼女の両親、家族、親戚が乗っていたワゴン車が・・・救急車で松本の大学病院へ搬送された時には、彼女の両親と家族、親戚全員がほぼ即死状態。彼女・だ・け・が・・奇跡的に・・でも、顔には見分けがつかないほどの傷を・・・
僕は、あのラーメン店での、あの時の・・彼女に申しわけなくて。どうしてもひと目・・と、思ったのだが・・・面会謝絶。そのまま心にわだかまりを残し、東京へと引っ越して行ったのである。

あれから19年か・・
「あ〜先生、また何か考えごとしてるぅ〜」
彼女にそう言われて気がつくと、いつのまにか、「みなとや」の前に・・・

 もうひとつの

「あのさぁ・・やっぱり、宿へ入るのはやめとこっ。」「きみ・・」
(そう言えば、彼女の名・・まだ知らなかった)
「“きみ”?そっか!まだ私〜名前言ってなかったよねぇ〜」「秋山里美・・“さとみ”だよぉ〜。18でぇ〜す!」
私が聞く前に年齢(とし)までも・・
「おっかしな名前でしょっ?秋の山の里なんて・・」
「あっ、先生は教えてくれなくてもいいよぉ〜。だって〜雑誌やテレビで見て知ってるも〜ん。有名人・・憧れの。」
そう言って、彼女(さとみ)は明るく笑った。
「そう。里美さんか・・」
(もうさっそく名を呼んでる)
「さとでいいよっ。それから、さんもいらない。」
「そう。で、さとはここの生まれだろう?人目も・・どこか他所へ行こうか?」
「ぅ〜ん。そうだね〜」
「じゃぁ、僕はフロントへ伝言を・・今日は遅くなるって・・・」
「遅くぅ〜?帰らないんじゃないのぉ〜?」
さとは、不満そうにそう言うと、ちょっとほっぺを膨らませた。

私の名は、秋山智恵(ちえ)。親友の久美(くみ)の3回忌のため、ここ松本へ何十年ぶりかでやって来た。久美と私は、地元松本の幼稚園、小学校、中学校といつもいっしょ。とっても仲のよいお友達で、高校こそ、私が諏訪、久美が松本と、それぞれ別々になってしまったけれど。お互いによき相談相手。その久美が亡くなったのを知ったのは、一通の手紙からであった。

{智恵、ごめんね。あれからずっとご無沙汰で・・智恵と会わなくなって、もう12年ぐらいかなぁ?元気してたぁ?あの時から・・ぜ〜んぶ智恵にまかせっきり・・ほんとにごめん。大きくなったんだろうなっ・・私ね、分かったの。今になって。やっぱり自分で・・って。でも、こんなこと言ったら智恵に叱られちゃうよね。私、あの事故のあとから、時々頭が痛くって・・担当のお医者さんに相談したんだけど、なにも教えてくれないの。でも、自分では分かってる。そろそろだなって。今日手紙を書いたのは、今のうちに智恵に伝えておきたくて・・ほら、あの別所の「愛染桂」の話・・智恵、中学校の卒業式の時、話してたじゃん。でね。偶然にね。別所で・・あの人に・・・間違いないよ!だから・・「あっ、頭が・痛・ぁ・い・・」あ・の・ひ・と・・あ・の・・お・し・え・・・}

この手紙が届いたのは、ちょうど今から3年前。届けてくれたのは、上田市別所温泉「臨泉楼柏屋別荘」のご主人。なんでも、宛名の住所を頼りに届けてくれたとのことで・・その時に、久美が亡くなったことを、初めて知った。
私は、身寄りのない久美の遺骨を引き取り、久美のお父さん、お母さんの眠る場所へその遺骨を・・そして、いろいろ悩んだ末、私一人でひっそりと・・・

 疑問

「さてっと。これからどこへ行こうか?なにか食べる?・・さと?」
「あ〜なにかいい感じ〜」
そう言って、さとは笑っている。
「どうしよっかな?さと・・そんなにおなかすいてないし〜」「下社のほうへ行ってみよっか?それとも、家へ行く〜?」
「・・そう・す・る?」
私は、ちょっと躊躇って答えた。さとのお母さんが留守の時に、それも二人だけで・・やっぱり、気がひける。でも、いつまでもここに立ち止まっているわけにも・・・
そして、ふたたび今来た道を引き返し、大社通りを抜け湖畔通りへと向かう。

湖畔通りには無数の旅館が建ち並び、その旅館からの灯かりと街のネオンが、湖に反射し妙に色っぽく、昼間とはまた違った美しさを湖に映し出している。
「ほら、もうあそこ」
と、さとは私の手首を握りしめて引っ張ると、もう待ちきれないと言わんばかりに、一目散に走り出した。苦しい・・そんなにダッシュすると・・・こういう時になって、普段からの運動不足が悔やまれる。

さとの家は、旅館が建ち並ぶ湖畔通りから路地へ入り、少し奥まったところにある木造の平屋建てあった。敷地の大きさはほどほど。お世辞にも豪邸と呼ぶには・・という感じである。そんな私の気持ちを察したのか、
「ごめんね〜小っちゃい家なんだ〜」「どうぞどうぞ〜奥まで〜」
と言って、含羞んでみせた。
部屋の中は、きちんと片付けられていて、さととお母さんの几帳面な性格をうかがい知ることができる。私がキョロキョロしていると、
「先生〜こっち、こっち。私の部屋だよっ」「どう?・・らしいでしょう〜」
と、さとは嬉しそうに、
「これがさとの小っちゃい頃からのアルバム・・見るぅ〜?」
そう言って、机の棚から1冊のアルバムを引き出した。
私は、アルバムを開く。可愛らしいさとの顔・・その写真の下には、{里美 4歳}と書かれている。その横には、もう少し大きくなったさとの写真・・同じように下には、{里美 5歳}・・そして、{里美 6歳}・・・{里美 10歳}・・{里美 18歳}・・・
「可愛いなぁ」
私はそう呟きながら、
(おや?)
と思った。どうしてだろう?誕生から3歳までの写真が1枚もない。私のこの疑問は、アルバムのページを捲るごとに大きく膨らんでいった。

その疑問を、さとに投げかけるべきか悩んでいた時、私は、さとの机の上のあるものに目が留まった。どこか見覚えのある容器・・私は、写真の疑問よりも先に、
「さと、これは?」
と、その容器のことを尋ねていた。
「あっ、それね。香水。母さんからもらったの。」「でもね。ほとんど入ってないの・・嗅んでみる?」
そう言って、さとは香水の蓋を開けて、私の鼻先へと・・容器の底、わずかに残った香水。あっ?!この香り・・甘く擽る・・・

 父

思いだした。遠い過去の・・ほろ苦い記憶・・・
間違いない。この香りと容器。
(ぅん?最近・も・・確か・・この香りを?!)
でも、なぜ?さとの家(ここ)にあの時の、香水が・・もしかして、さとのお母さんは、19年前の・・いや、そんな筈・・・
私は、別の意味で、さとのお母さんに一度会わなくちゃいけないなと思った。

「さと?お母さんは」
私が問いかけようとした時、
「♪〜♪♪〜♪♪」
携帯が鳴った。この曲は、私のではない。
「あっ、母さん〜?どうしたのぉ〜?」
「えっ?!明日上田へ行くのぉ〜?どうして〜?」
「ぅん。分かったぁ〜じゃぁねぇ〜」
「母さん、明日上田へ行くんだってぇ〜誰か・・人探しみたい〜」
「そう・・上田・・・僕とさとが昨日まで行ってたとこじゃん。」
「そうだよね〜変な母さん。」
「ところで。さと、居間に小さなお仏壇があったんだけど・・あの額に入った写真、さとのお父さんかな?」
「ぅん。そうだよ・・」
「お父さんは、いつ亡くなったの?ごめん。変なこと聞いて・・気、悪くした?」
「ぅぅん。そんなことない。」
そう言ったさとは、なんだか悲しげに、
「父さん、今から7年前・・御柱の木落としが原因で・・・わ・た・し・・だから・・嫌い・・・御柱。もうすぐ、来月で父さんの7回忌」
「そうか・・さと・・・」
私は、さとの顔を見ながら、声を詰まらせた。
「先生っ!暗い顔はやめよっ!お互いに」
そう言って、気丈にもさとは明るく振舞う。その姿が見ていていじらしい。
「そうそう。さとの写真、どう?可愛いでしょっ!」
「うん。可愛い。」
そうだ。この写真の疑問がまだ・・・

それから、さとと何時間話しただろう・・結局、写真の疑問を聞けぬまま深夜に。気がつくと、私の傍らで小さな寝息が聞こえている。初めは会話になっていたんだけれど。しだいに・・
「ぅん・・」
と言う生返事だけに・・そのうちに・・・
「疲れたんだな・・きっと」
私は、勝手に押入れから布団を取り出すと、さとを抱きあげ、静かにその布団へと。
「ぅ〜〜ん・・せ・ん・せ・・」
大丈夫。起きてない。このまま寝かせておいてあげよう。
それから置き手紙を残し、私は「みなとや」へと戻った。
3月といっても、まだまだ肌寒い夜風が私の頬を・・まるで、訝るように・・・

〜『第4話』..おわり



 変貌

私、秋山智恵は今、「柏屋別荘」にいる。早く来なければと思いながらも、なかなか来れなくて・・あれからもう3年も経ってしまった。ここ上田へ来た理由(わけ)は、久美の手紙を届けてくれた宿のご主人へのお礼と、もうひとつ、“あの人”のことも聞きたくて・・・

今思えば久美は、ほんとうに寂しかったんだろうな・・と、目頭が熱くなる。

19年前のあの春休み・・悪夢のような出来事。久美の卒業祝いと、まだちょっと早かったお花見会を兼ねた上田への旅行・・ほんとに早すぎ。久美のおじさんもおばさんも、みんな死んじゃった。久美だけがなにも知らずに・・約4ヶ月近く入院していた。私は、久美が入院中、なかなか面会ができずに、心苦しく感じていた毎日だったが、突然、久美が退院したことを知った。そして、急いで久美の家へと・・でも、久美は顔が・・まったく別人のように・・・

(えっ?!久美って、こんなに可愛かったかしら・・)
あの頃の面影がほとんどない。
「久美、大丈夫?ほんと、なんて言ったら・・」
「ありがとう。私・・」
潤んだ久美の瞳からは、大粒の涙が。
「久美、一人ぼっちになっちゃって・・可哀想。」
そう言う私も、久美といっしょに泣きじゃくっていた。そのあと、久美の口から意外な・・・

「智恵だから話すね。奇跡的に助かったのは私と・・」
そう言いながら、久美は、自分のおなかをやさしげにさする。
「えっ?!それって・・」
「ぅん。私のおなかの中に・・まだ3ヶ月・・・」
「いつ?誰の?」
「きっと・・あの時の・・・」
「だから・・私、悲しくても生きていけるかな・・って」
そう言った時の久美の顔には、大人の面影が・・・

「久美、もしかして?」
「そう。高校の時の隣のクラス、正人(まさと)くん。」
「あの料理研究部の副部長?」
「ぅん。」
「え〜!うっそ〜?!」
私は、思わず素っ頓狂な声をあげていた。
(あの正人の・・赤ちゃん・・・)

正人のことは、よく久美から聞かされていた。特に久美が嬉しそうに話したのは、松本城でのデイト。その時に、素敵な香りの香水を買ったとか・・ほんとに自慢げに話していた。そして、その香水・・正人がすごくお気に入りとかって・・・
そう。香水・・今は私の手元に。あの時、久美に渡されたまま・・・

そう言えば、正人は、今では有名な美食家に・・つい先日もテレビ出演していた。テレビ写りは、意外と持てそうなタイプ。その正人のことを知りたくて、今日、私はここ「柏屋別荘」へ来た。
玄関へ入ると、フロントには誰もいない。そこで、
「こんにちは〜!」
私は、大きな声で呼びかけた。
「はい〜!」
明るい、私よりも一段と大きな声が、フロントの奥から聞こえてきた。これでやっと・・“あの人”のことが・・・

 里子(さとご)

「あの先生のことですね。ちょうど、一昨日までこちらにお泊りになられてたんですよ。」
「3年前にも、こちらをご利用していただきまして、大得意さまです。」
「どこへ向かわれたのか、ご存知ないでしょうか?」
「さて、どちらへ行かれたのか・・宿泊のご予定を変更されて、急にお発ちになったんです。」
「そ・う・ですか・・」
(すれ違いか)
「そうそう。秋山様は諏訪の方でしたよね。」
「ええ。ご主人もご存知のとおり、諏訪に住んでおりますが」
「そう言えば、確か先生、諏訪がどうのこうのとか・・おっしゃっていたような」
「えっ?諏訪?!」
(そうか・・諏訪に・・・)

(諏訪かぁ・・)
私が諏訪へ嫁いだのは、高校を卒業して3年目のちょうどこんな季節。親の強い勧めもあって、まだ21という若さであった。でも、私たち夫婦は子宝に恵まれず、病院にも行ったけれど、赤ちゃんは無理との診断。それから2年後だった。久美から電話が入り、相談したいことがあるから、今から行くと言う。その久美の言葉、なんだかいつもと様子が違った。どうしたんだろう?久美・・・

「智恵、ごめん。私のわがままを聞いてくれる?」
「久美、絶対に後悔するよ。」
「でも、智恵も子供ができないんだし・・ずっと前から、赤ちゃんほしいなって言っていたじゃん。」
「そうなんだけども・・」
私は、確かに久美の言うとおり、子供がすごくほしい。でも、それとこれとは・・あまりにも唐突・・・

それから何度も説得したが・・結局、久美の心は動かなかった。
「ほんとに、ごめん。」「これから私、正人を探す旅に出る。」
そう言って、4歳のお誕生日を迎えたばかりの里美ちゃんと、あのお気に入りの香水を残して行ってしまった。
強引過ぎる久美に、私はカチンときた。でも、赤ちゃんもほしかった。複雑な女心・・・

 たった一人の

とにかく家(諏訪)へ戻ろう。やっぱり、ほんとうのことを里美に話そう。きっと里美、怒るだろうな・・そして、泣くだろうな・・私は、その姿を想像すると胸が痛くなった。
(ごめんね・・さとちゃん・・・)

「お帰り〜!」
明るい声で里美が迎えてくれる。
「ただいま・・」
「早かったじゃん。母さん。」
「ぅん。用事が意外と早くに片付いてね。」
「そう。よかったね。」
(明るいな、さとちゃん)
「ほんとにいい娘(こ)に育って・・」
「ぅん?母さん、なにか言ったぁ〜?」
「そ・あ・・あのね。里美に話があるんだ。ちょっと、そこへ座って」
「どうしたのぉ〜?母さん。あらたまっちゃって・・今日は変だよ。」
「さ・と・・」
と、話しかけようとした時、
「♪♪〜♪」
玄関のチャイムが鳴った。
「あっ、誰か来た。はぁ〜い!」
里美は玄関へ行ってしまった。
玄関先で誰かと話す声。
「あっ?先生!いらっしゃい!」「昨日は、突然帰っちゃったから、さと、朝起きてびっくりしちゃった。」
(先生・・誰だろう?男の人?)
「今ねぇ。母さんが帰っているの。あがってあがって。」
「そう。じゃぁ、遠慮なく・・お邪魔します。」
そう言って、里美の後ろから入って来たのは、正人・さ・・ん?!・・・

さとが私の娘(こ)?!そんな・・
智恵さんの話が終わった。両膝に置かれたこぶしを握りしめ、俯いたまま、肩を小刻みに震わせているさと・・目には、いっぱい涙をためている。その横で智恵さんも泣いている。私も同様に・・そして、これからは、三人で力をあわせて生きていけたらと・・そう心に誓った。さとにも私にも、そして智恵さんにも、お互いたった一人の家族だから・・・

 愛染桂

朝靄の中の別所の街・・あれから3年の月日が流れ、少し女性らしさを増した21歳のさと。そして、少し老けた私。二人して今、「大師湯」のほうへ歩いて・・
(おや?このシーン、どこかで・・見ていたような・・・)
そうだ。6年前に私が、「柏屋別荘」の部屋から見たシーンと同じ・・ということは、“彼女(久美)”と思っていたのがさと・・そして、謎の人影は、私?!予知夢というのは、聞いたことはあるが・・もしや、私に6年後の未来が見えていたということか・・・

「お父さん、どうしたのぉ〜?突然立ち止まっちゃって〜」
「あっ、いや・・なんでもない。」
「あの時から3年経ったんだよね。」
「そうだね。いろいろあったよな。」
「ぅん。お父さん?」
「なに?」
「3年前、常楽寺の茶房で話していた女性(ひと)は、お母(久美)さんだったのぉ?」
「そうだよ。」
「どんな話をしたのぉ?」
「ぅん・・お互いに一人旅?って」
「そっかぁ〜。あの時、さとにはお母さんが見えなかった・・さと、お父さんに、誰と話してるの?って、聞いたんだよね。」
「そうだったかな?」
「もう。お父さんたら、忘れたふりして〜」
さとが微笑んでいる。こうして見ると、笑顔は母さん似だ。
「今日の夜は、「愛染桂」の下に行くんだよね。さともいっしょに・・」
「さとにも見えるかなぁ?逢えるかなぁ?お母さんに」
「逢えるよ。きっと・・」
(そう。必ず・・来てほしい・・久美・・・)

あの3年前とまったく同じ日、同じ時間・・帳の下りた闇の中。ただ違うのは、私の腕にしがみつく、さとがいること・・・
さとと私は、急ぎ足で「愛染桂」のそびえ立つ北向観音へ向かい、ただひたすら歩く。今の時間は11時45分。あと8分で53分。
「さと、もう少し急ごう。」
なんだか、気ばかりが急いて、思うように足が・・・
それからかなり歩いた気がした時・・目の前に、あの懐かしい大きな木立が・・・ちょうど、11時53分。さとは、私の二の腕に絡めた両の手を、よりいっそう強く握りしめる。そして、目を瞑って・・いや違う。しっかりと見開いている。私も負けじと、闇の中に目を凝らす。
「お父さん、見て!綺麗な星!」
夜の闇の中、澄んださとの声が響きわたる。
「どこだろう?お母さん」
「あっ!あそこ!木の上・・お父さん!」
さとが、もっと大きな声で叫んだ。私が顔をあげると、「愛染桂」の枝の上に・・来たんだ母さん。
「さと?・・大きく綺麗になって・・父さん・・」
さとと私は、涙がとめどもなく。
「ごめんね・・さと。よかったね・・父さん。これで・・私も。」
「ありがとう・・さ・よ・な・ら・・「愛染桂」・・・」
その時、「愛染桂」の枝が大きく揺れて・・まるで、返事をしたかのように・・・

〜『第5話』..おわり


 『旅の果てに』..完



 【あとがき】

今年2004年3月も、あと残すところ1週間。そして、様々な新しい出逢いが待つ春、4月を迎える。「出逢い」・・冬から春へ。そんな季節感が味わえる連載小説を書きたいな・・と思いたったのは、まだ、山々に雪の残る2月の始めであった。そして、2月半ば頃から書き始め、約1ヶ月余り・・ようやく完結することと。
この『旅の果てに』は、人名、ストーリー等はすべてフィクションであるが、小説に登場する地名、名所、施設等はすべて実際の場所である。また、旅館及び名所等の案内、旅館内の様子や食事の紹介等も同様である。
この小説を読まれた皆さんに、そんな季節感と旅の雰囲気を、少しでも味わっていただけたら、作者としては、ほんとうに嬉しいかぎりである。
小説の舞台は、信州の上田市、諏訪市、松本市がそのメイン舞台となっているが、上田市の「別所温泉」の「愛染桂」は、縁結びの霊木として古くからの言い伝えがあり、また、松本市の「松本神社」は、縁切りの神社として、その噂が人々に語り継がれている。そして、松本城は、全国唯一の黒壁の平城で、その勇壮さは一見の価値がある城である。これら、小説の舞台となっている観光地は、それぞれに有名な場所で、その季節には、多くの観光客が毎年訪れるが、これらの観光地以外にも、信州には、まだまだすばらしい場所がたくさんある。いつの日か、機会があれば、それら他の観光地を舞台にした小説も書きたいと思っている。

その時は、またご愛読を・・・

読者の皆さんに深謝の意をこめて


※参考文献:「NaO信州温泉宿」(株式会社カントリープレス発行)




2004年3月25日
by Hiroshi Morita(kanjii)






Hiroshi Morita(kanjii)
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